収入の十分の一を聖別する(おとずれ)

収入の十分の一を「聖別」する
(平塚教会『おとずれ』2020年2月号より)
北川一明

つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。(Ⅱコリント九6~8)

牧師や先輩信徒から「洗礼を受けたからには、収入の十分の一を必ず献金してください、それは信徒の義務です」と言われたら、みなさんは困惑するでしょうか。
クリスチャンが伝道するのは愛する人に幸せに生きてもらうためです。愛する人が口先だけで「信じた」と言っても幸せにはなれません。そこで伝道は、具体的には洗礼を受けた上で信仰生活をすることを勧めます。
十分の一献金のことを言わずに洗礼を受けさせ、後から「実は、献金義務がある」というのでは詐欺まがいの怪しい宗教です。そこで、クリスチャンになると収入の十分の一を献金しなければならないと、きちんと説明して伝道してください…と言われたら、「それでは誰もクリスチャンにならない」とお思いになるでしょうか…。

信徒のみなさん。それでもクリスチャンであるからには、収入の少なくとも十分の一を神に献げてください。愛する者に「収入の十分の一を神に献げるクリスチャンになりましょう」と勧めてください。
これはタテマエ発言ではありません。本気です。また私個人の意見ではありません。教会が二〇〇〇年来当たり前と考えてきたことです(根拠となる聖書は申命記一四・22以下、マタイ二三・23を参照のこと)。

もっとも、決して「収入の十分の一を《平塚教会》に献げてください」と言っているわけではありません。「収入の十分の一を《キリスト教会》に献げよ」でもありません。「《神》に献げてください」と言っているのです。
そして何をもって《神》に献げたとするかは、献げる本人の信仰的な判断に委ねられています。

たとえば子育てに遣うお金でも、神に献げることになる場合もあります。
信者かどうかにかかわらず、子どもを天からの授かりものと考える人は多いでしょう。そして多くの人が自分の子にはお金をかけます。
子どもの教育にお金をかけようとする時です。親の意図に反する進路を子が望む場合もあるでしょう。
親に従うなら学費を出し、従わないなら出さないのであれば、自分の望みを叶えようとしています。お金を遣うのは子のためではなく自分のためです。
子は神からの授かりものだから、自分の自由にするのではなく、子自身のために育てるべきだと考えると、判断が変わってきます。
神さまからお預かりしている尊い子どもとして支えよう。子自身が最も活かされるように、その手伝いをしよう…。そういう思いで、感情的には気に入らなくとも精一杯のことをしようと学費を出すのならば、「神に献げた」ものとなるかもしれません。

それも献金だという判断が、正しいとは限りません。しかし間違いとも決めつけられません。
もっとも、判断は、自分に対して甘くなりがちです。「神さまからお預かりしている子どもを大事に育てようと、俺の命令に従わせているのだ」として自分の価値観を押しつける場合もあるでしょう。
それで「神に献げている」と言い張るのが正しいことなのか、裁くのは周囲の人ではありません。神です。

それでも、どんなことにも神との関係を意識しながらお金を遣っていれば、次第に正しい方向に導かれます。

人を幸せにするのは、自分の都合で生きるよりも尊く正しいことを仰ぎ見て生きる場合です。
お金を神に献げる生活のほうが、自分のためだけに遣う生活よりもずっと、最終的には豊かに生きられます。生きる目標が正しくなるからです。それは、子育てを例に考えれば分かります。
子どもは自分に従うのが当然だと思っていると、子どもが大きくなってから、自分が子を不幸にし、自分自身も不幸であったことに気付きます。子どもを神からお預かりしている尊い魂と信じて精一杯育てるほうが、子どもとの関係も豊かになります。

福祉団体に対する寄付に限らず、「神さまから与えられた恵み」と感じつつ遣うお金は、何でも献金に通じます。そう考えれば、多くの人が十分の一以上を神に献げているかもしれません。

ただ、どこまでが自分のためでどこからが神さまのためか、油断すると判断が甘くなります。「俺の趣味は神さまから与えられた賜物だ」として、趣味の出費を献金とする人もあるかもしれません。
利己心と信仰を取り違えると、結局は自分を不幸にするでしょう。

判断を誤らないために「取り分ける」というテクニックがあります。常に、収入の十分の一を、まず取り分けておくのです。「聖別」とは、神のため、聖なる用途のために別に取り分けて置くことを言います。

聖別されたお金を自分の趣味のために遣うとき、きちんと良心の痛みを自覚しましょう。そうしていれば、判断が甘くなることはありません。多少はズルしても、徐々に自分をただして行けるでしょう。

「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」とある通りです。献げ物は自分の人生を豊にします。

自分の所属する教会の財務を支えるのは、十分の一献金とは別の責任です。十分の一献金は、平塚教会に対して献げるのではありません。神に対して献げます。豊かに蒔いて、豊かに刈り取ってください。